潔癖症の話

私は生粋の潔癖症だと思う。

そもそも潔癖症の人とは、ただ綺麗好きな潔癖症と、自分以外の人間が触った物は全て汚いと認識する潔癖症の2種類の人間がいると思っている。私は後者の方で、勝手に「嫌われる方の潔癖」と呼んでいる。

嫌われる方の潔癖は、一緒に過ごす周りの友人が不憫になるくらいとても面倒で厄介な性格をしている。しかし、本当に辛いのは潔癖症本人であることを強調しておきたい。

これから潔癖症について熱弁する予定だが、これはあくまでも私の潔癖の症状であって、潔癖症の人間全員に当てはまる訳ではないことを心得て読んでほしい。

まず、潔癖症のエピソードとして最初に語られる電車のつり革だが、物心がついた時から1度も触った記憶がない。あれは電車内で掴むものではなく、様々な人間の菌で保湿された円形のオブジェなので、触る必要が全くないのである。

じゃあ電車内はどうして過ごしているかというと、椅子に座るか壁にもたれるかしている。満員電車で椅子も壁も空いてない場合は、長年つり革に頼らなかった生活のお陰で鍛えあげられた足の裏の筋肉とバランス感覚により、直立不動で過ごす。

エレベーターのボタンは、みんなが押しがちな真ん中は避け、必ず爪を立てて端を押すようにしている。外出先の店で出くわす、取っ手を持って引くタイプのドアについては、下の方を2本指で持って引く。これは長年の観察と研究の結果、ほとんどの人は、取っての真ん中か上の方を持って引くことに気付いたので、あまり人が触れなそうな下を持つようになった。ちなみに、取っ手の下側を引っ張るのはとても力がいるためものすごく中腰になるのだが、比較的キレイな部分を挟むためにはやむを得ない。

昔からこんな有様だったので、高校の時は周りの友人に心配されたことがあった。私にいつか彼氏が出来た時、彼氏とチューはおろか手を繋ぐことすら出来ないのではないか、と周りは本気で心配していた。

今実際にツレがいるのだが、思いの他ベタベタしている。普通に手も繋ぐし、何の問題もなくチューもする。周りが騒いでいた割には、何の支障もなく過ごしていると思う。

なぜ彼氏とつり革にここまで差があるのかというと、私のさわれないボーダーは「不特定多数の、誰が触ったか分からない物」であるからだ。つまり、ツレは正体が分かっているし1人なので、触っても大丈夫なのだが、つり革や、市役所に置いてあるペン、ふれあいコーナーの動物達などは、誰が何人触ったか分からないため、とても怖く感じる。昔から人間は、分からない物に恐怖心を抱くと言われているので、私にとって分からない物はつり革に該当するというわけだ。

ところでそんなツレも、電車内でつり革を握ろうもんなら事態は急変する。さっきまでベタベタしていた私だが、ヤツがつり革を掴んだその瞬間、ヤツの存在自体がつり革になるのだ。一先ずヤツの体から離れ、手が近づこうもんならビンタの1つでも食らわせ、私に一切触れないよう忠告する。つり革に汚染されたような人間に用はないといった扱いになり、電車に降りた瞬間、トイレに直行し、手を洗ったことを確認してようやく手を繋ぐような有り様なので、お互い本当に面倒だなと感じている。

つまり、潔癖の思考は、日常生活にかなり支障をきたしているのだ。自分が潔癖じゃなかったら、どんなに幸せな人生を送っていただろうと毎日考えている。つり革にさわれる人は本当に凄いと思うし、通学の電車でつり革につかまっている人に「今どんな気持ちでつり革を触っているのですか?」と本気で質問したくなる。

潔癖じゃなかったらつり革を掴んで電車に乗れるし、カバンを床に置くことが出来る。温泉に入ることもできるし、目の前で握ってくれる系の寿司を、なんの邪念も無く美味しくいただくことができるなんて本当に素晴らしいことではないか。

潔癖じゃない人は、当たり前だと思っているその動作が、ある人にとっては全く当たり前じゃない、特別なんだということを自覚して、毎日つり革に感謝して生きてもらいたいところである。