自己肯定の低さについて

私は生まれつき、自己肯定が低い人間である。

 

私の父親の話だが、実に娘に甘い。

幼少期と親の関係が良ければ、子供は自己肯定が出来るだのはよく言われる。私の父は私の全てを褒めて育ててくれた。私が何をしても、何を言っても褒めることしかしなかった。しかし、私は物心ついた頃から、それらを否定して生きてきた、捻くれた人間なのである。

父は、私が生まれた時から可愛い可愛いと言って育ててくれた。私が何をしても可愛いと言ったし、何をしても良い子だの偉いだの、ありとあらゆる言い方で私の全てを褒めてくれた。

しかし、当の私といえば、親から可愛いと言われても、それは私が娘だからで、自分の子供である以上私がどんなブス顔をしていても可愛いく見える物なんだから、私は別に可愛い顔ではないと思っていた。私のことを賢いとか偉いなどと言って褒めてくるのも同じ原理である。私は別に可愛くないし、賢くも偉くもない。娘だから親視点ではそう見えるだけだ、と2歳くらいの頃から思っていた。なので、褒められても全く嬉しくなかった。

また、これは名言だと思ったのが、私が大学受験で悩んでいた際に、父が『私ちゃんは、性格だけでいけば東大に入れるのに』と言ったことである。これを母から聞いた時は、父は私のことを天使か何かと勘違いしているのだろうと思った。当たり前だが私は性格だけでも東大には入れない。私は、父が知らないだけでめちゃくちゃ捻くれてるし、努力は報われないと思っているし、好きな言葉は目には目をだ。こんな人間の、一体どの部分を見て東大に入れるほど性格が良いと言えるのだろうか。

と、ここまで自分をディスれるくらいに自己肯定が低いのは、これを読んでよく分かっていただけたと思う。親に何を言われても、私の本質を知らないくせにと、自分だけでなく、親の言ったことまで否定してしまう難癖であると言える。

親だけでなく、友人や先生、恋人から褒められるのも心底苦手だ。というか、褒められる事自体が苦手なのである。

私が欲しいのは褒め言葉ではなく、私そのものを肯定してほしいのだと思う。親がよく言うのは、『私ちゃんなら絶対出来るもんね、だって私ちゃん偉いもん』である。ここに、私がそれを出来るという根拠が何もないのだ。偉いと言ってくるのも理由が無いし、ただ単に、私が娘で可愛いから、出来ると過信しているだけに過ぎない気がする。

これは肯定ではなく、ただの親の期待を押し付けられているだけである。そっちが勝手に期待しているだけで、私のことを何も分かっていないように感じてしまう。

私が求めているのは期待ではなく、『失敗しても大丈夫だよ』という肯定なのである。私は昔からこれを言って欲しかったのだ。『頑張れるもんね』ではなく『頑張らなくても大丈夫だよ』が欲しいのだ、と最近気づいたのでここに記した。

昔からこれをを欲しかったのだろう。好き勝手褒められるより、何をしても受け止めるという肯定が欲しかった。これでこそ、自分を肯定できる、幸せな人生が歩めるのでは、と思った所存だ。