M-1に出場した話 その2

前回の続きになるが、M-1の予選に出場した時の話である。

 

当時の私は中学生で、テストを控えていた。

ネタが全く決まらず、ボケーーと過ごしているうちにテスト期間に入ってしまったのだ。

しかも、金曜日にテストが終わり、土曜日を挟んだ日曜日が本番という鬼的スケジュールが組まれていた。テスト期間が終わってから2日でネタを作って仕上げるなんて、プロでも間に合わない状況である。

しかしまだ中学生であるためテストを放置するわけにもいかず、とりあえずネタ作りは中断せざるを得なかった。本番にきっと間に合わないなぁ、どうしようかなぁと思っていたところ、意外なところから救世主が現れた。

父親である。国家公務員でかなり上の役職にもついている厳格で真面目な父親が、ネタ作りに困った可愛い娘を見かねて、代わりにネタを作ってくれたのだ。

確かに父親は昔から私を散々甘やかして育ててきたが、娘の代わりにネタを作ってあげる父親は吉本界を見渡しても流石にうちだけだろう。

しかも、こんな真面目な父親が作ったネタなのだから対して面白くないだろうと期待せずに読んだところ、結構面白いのである。あまり覚えていないが、ボケが勉強したくない的な主張をしてツッコミがツッコんでいくという学生らしい仕上がりになっていた。

ところどころつまらない箇所があったので、それを私が軽く手直しし、テストが終わった金曜日の夜にようやく完成した。父親が作ったネタにも関わらず、謎の達成感に満ちていた。

そして土曜日に友人がうちに来た。今から明日まで、泊まりがけでみっちりネタを覚えるのである。

ここで私と友人の親が、私の方が声が低く、友人は声が高いから、声の高い友人がボケた方が面白いんじゃないかとの指摘を受けた。声が低い私がボソっと喋ってボケるより、あっけらかんと話す友人がボケた方が面白いと思ったらしい。ボソっとツッコむのも面白くない気がしたが、話し合った結果、ボケとツッコミの担当を入れ替えることにした。

友人は頭が良く、私も演劇部に所属していたお陰で2人ともセリフの覚えは早かった。20回ほど合わせたところで、友人は明るくボケ、私がボソっとツッコむというバランスの悪い漫才が誕生した。

 

本番当日、我々は大阪にいた。確かHEP大阪とかだったと思う。会場へ行くと、私達と同じくアマチュア部門の出場者で溢れかえっていた。

舞台の裏で待っているとお笑い芸人のシャンプーハットが通りかかった。芸能人との思わぬ遭遇であったが、本番を控えているのでそれどころではない。セリフが飛ばないよう、何度も何度も頭の中で復唱した。

そしていよいよ、私らの出番になった。観客は何人かいて、その中に審査員が混じっているようである。コンビ名が呼ばれ、私達はステージ上のマイクに向かって走った。そして2日で仕上げた精一杯の漫才を披露したのである。

 

客の反応はそこそこ良く、思った以上にウケた感じがした。

ネタは、勉強したくないというボケにツッコミが勉強の楽しさを伝えていくという内容だったのだが、

ボケ「歴史とか将来使わんのに、なんで勉強せなあかんの」

ツッコミ「大阪城豊臣秀吉が作ったんやなとか分かったらお城巡りとか楽しいやん」

ボケ「大阪城作ったのは大工やで」

というしょうもないネタが謎にウケてしまい、私が焦ってツッコめなかったというトラブルが発生したが、それでも終始笑顔に包まれた漫才だったと思う。単に客が良い人達だったというだけかもしれないが、みんなが笑顔になれるお笑いって素晴らしいなと思いながら漫才を披露したのであった。

帰りの車では、思った以上に客の反応が良かったことで「結構手応えあったな」「これは予選いけたんちゃうか」と盛り上がった。ひょっとしたら、100分の1くらいの確率でお笑い芸人になれるかもしれない...と夢すら抱いた。

後日、予選を通過したコンビが発表されたが落選していた。当然の結果である。

しかし、少しでも私達に夢を見せてくれたこと、私達が喋ることで見知らぬ人達が笑ってくれることの嬉しさや楽しさを知った。M-1に出場しなければ知り得なかったことだ。

 

私達にM-1出場のきっかけをくれた杉浦太陽に感謝したいところであるが、彼も中学生の女の子がまさかあの一言で本当にM-1に出るなんて思ってもみないだろうし、何よりも私達本人が、M-1に出場したことを未だに一番驚いているのである。